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まわるよ歯車

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よりもい十二話【宇宙よりも遠い場所】

母親の死を受け入れる時。


いやね、私も最初はそう思っていたんですよ、
「なるほど、報瀬にとっての『南極よりも遠い場所』はあの世なのね」
って感じで。
でも、どうも違和感が残るというか、
『母の死を受け入れ、自らの時を進める』
っていうには何か大事なものが欠けているという感覚。
そもそも報瀬にとって母親はどういう存在であったのか、
というのがまるで印象に残っていないんですよね。

あとはこの時の叫びが、あまり悲しみを感じない所とか。


声優の演技力の問題を言ってるんじゃないんですよ、
ていうかこれを聞いて演技力を問題にするとか、
「おめーの耳と脳みそはしらたきで繋がってんのか?」ってレベルですよ。
いや、別にそれはどうでもいいんですが。
それはともかく、私がまず感じるのは『必死さ』なんです。
悲しさとか悲壮さではなく。




さてさて、私はこれまでの話の中でも
「なーんかコイツ母親に会いに行くって言ってる割には、
あんま母親の話してなくない?」とは感じてましたので、
改めて前までの話を見直すと、
なんと報瀬、自分の母親に対しての言及が殆ど無い。
正確には子から親に向けた正負の感情喜怒哀楽がまるで見当たらないというか、
作中では小淵沢貴子の人物像が描かれてはいるけど、
報瀬から見た母親としての姿がまるっきり欠けてるんですよね。


たとえば一話のキマリに南極へ行く理由を語る時は、
小淵沢報瀬「私は行く、
絶対に行って、無理だって言った全員に『ざまぁみろ』って言ってやる」
と怒りの感情を覗かせるが、
その前の母に会いに行くと語る時は事実を淡々と述べる。


砕氷船内で母が作ったかもしれない星空の天井を見ても、

どこか遠い所を観るような顔。

「止まった時を動かすために母親に会いに行く」
というのは確かに強い動機だし、それを実行する堅い意思も確かにあるんだけど、
じゃあ、その前後の「なぜ時が止まったのか」「会いに行った後どうするか」という
感情が作中で全くと言って良いほど描写されていない。
凡百なアニメなら「尺とテーマを両立させるためのそぎ落とし、あるいは単なる舞台装置」と、
結論づけるところですし、
実際序盤の頃は群像劇の体を為していたし、
そういうモンだとなんと無しにスルーしてた訳ですけど、
コレがこの十二話で決定的な違和感として残ったわけですよ。そんな訳で報瀬にとって母親とは?
という疑問を解決するために、まずは小淵沢家について考える。

とりあえず現在の小淵沢家は報瀬と祖母の二人暮らしだと思われる。
母親は既知の通り南極で遭難し不在。
父親に関しては影も形も見えてこない。
どうやって生活してんだ?遺族年金とか適応されるっけ?
とかいう現実的な疑問はさておき、
母以上に父に対しての言及がない報瀬。

砕氷船に乗り南極へ行くに際しての学校側に提出する保護者同意書には、

名前からして祖母が署名しただろう事が分かる。
いやこれが父の名前だとか言われたら困るゾイ。
さておき、このことからも父親は家庭に居ない存在だと仮定できる。
報瀬も何も言わないことから物心つく前から父親は居なかったんじゃなかろうか?
まぁ、これ以上考えても横道にそれるだけなので、
『小淵沢家は父親が元々居ない』とだけ想定する。


とすれば生活基盤は往々にして母親が担う事になる。
実家暮らしである事を踏まえれば家賃の負担はいくらか減るとは言え、
それでも祖母も含めた家族三人が暮らしていくのは大変だろう。
(家の規模を見るにそれなりに裕福そうではあるが)
となれば母は家に不在がちになるし、
『南極へ向かう』という夢も追うとなるとその労力は想像を絶するが、
まぁ、なんとかしたんだろう。別にここはそれほど重要なところじゃないし。
三年で百万貯めきった娘の親だし。
重要なのは『母親が不在がち』だという点。

そういう家庭の子供は特に一人っ子であれば、
とかく色々我慢しがちな子に育ってしまうし、
事実幼少期の報瀬は表情に乏しい場面が多い。


じゃあ報瀬が無感情な人間かというとそうではなく、




とてもポンコツ表情豊かである。


そして割と良く泣く。
これは報瀬だけでなく、他の三人娘も良く泣く。
重要な場面でも泣くし、そうでもない日常の場面でも割と泣いてる。
これはおそらく涙=感情が溢れた物という定義づけが
作中で為されているためだと思われる。
ついでに瞳が揺れる時は感情が揺れ動いてると推測できるし、
目が描かれないシーンでは感情が見えないシーンである事が多い事からも、
この作品において目と感情は密接に関係してるのは確定的に明らか。

報瀬の場合同年代の気の置けない仲間と一緒に居るから、
感情の堰(せき)のハードルがガクンと下がるのだろう。

二話でもうポンコツっぷりを発揮してるからいまいち実感を共わなさそうだが、
一話の時点で
玉木マリ「南極に?行けるの?」
小淵沢報瀬「みんなそう言う、ばあちゃんも、友達も、先生も、先輩も、
近所の人も、子供が行けると思ってるのかって、
いくらかかると思ってるんだって」

小淵沢報瀬「言いたい人には言わせておけばいい、
『今に見てろ』って熱くなれるから、
そっちの方がずっといい……」

小淵沢報瀬「前にも何人かそういう事言ってくれた人が居た。
でもみんなすぐ居なくなるの」
と語るように肉親であるばあちゃんにすら否定され、
応援すると語る友人に裏切られ続けた南極行きを、


あまつさえ本当に一緒に行くと言ってくれる人が出来たら、


そらハードルなんてタダ下がりも同然ですよ。


いえ、報瀬がポンコツかわいいという話ではなく、
一話ラストおよび二話以降の報瀬は感情の堰(せき)が緩んでる状態であり、
基本報瀬は我慢する(溜め込む)性格だし大人に対しては特に距離を置く性格である。
ということ。
これが何を意味するかというと、
きっと母親に対しても色々我慢してきたんだろうと言う事がうかがえる。

母が危険を承知で南極へ行くと回想するシーンでは、

「それでも南極へ行くんでしょ」
と尋ねる報瀬の言葉には思慕や尊敬といった感情は見えず、
どちらかというと「それでも私を置いて行くの?」という
寂しさが見えるが、それを面と向かっては言えない。
ほんの数秒のシーンではあるが、
ここに報瀬と母の普段の関係が凝縮されているのではなかろうか?

つまり、報瀬は母とあまり触れ合って来れなかった、
親子の時間が非常に短かったのではなかろうか。
もっと一緒に居たいという”ワガママ”を我慢してきた子じゃなかろうか。

これを踏まえた上で『母に会いに行く』という確固たる目的に対しての
感情が見当たらないのをなぜかと考えると、
それは報瀬本人とっても未知の、分からないものだから。という理由が見つかる。
母親への感情を我慢(溜め込み)し続けた結果、自分の感情が分からなくなる。

本人に分からない事は本人の口から出てこない。

「いや、お前、かーちゃんの事めっちゃ好きだろ」
というのは客観的に見た事象であり、
本人の、主観的な観点からはモヤが掛かったように不透明で不安である。
というのは十話の【パーシャル友情】が非常に分かりやすく描写されており、
この話も結月がいつの間にか友人扱いになっていた事に不安を覚える回であり、
視聴者からすれば「いや、南極くんだりまで高校生が一緒に来ておいて、
友人じゃないよはないでしょ」といった感じだが、
その内部に居るゆずにはそんな実感は全くない上に友人というのが居た事もないので、
不安に駆られて一騒動起きるという話。
主観では思い込みが強くて見えない関係。
ちなみに三話でもゆずが三人を親友認定してるのも十話への伏線でこの説の布石の一つ。


そして、もう一つ自分の気持ちが分からないと悩む回がある。

絶交回である。
でも、めぐっちゃんは自ら負の感情と向き合いそのモヤを半ば自力で晴らしてんだよなぁ……。
伊達にメインクレジットに名を連ねてはいないという事か。
ちなみにこの話のタイトルは【Dear my friend】で、珍しい英字タイトル。
これも多分アレと対になっている。

というように、遠回しに「自分の気持ちは自分じゃ分からない」
というのをよりもいは示唆し続けていた。


となればやはり報瀬も自分のモヤ掛かった気持ち、母への感情と向き合うために意識的、
あるいは無意識に南極へと向かおうとしたのではなかろうか。
少なくともよりもいというアニメはこれが根底にあるような気がする。
表層上では青春群像劇の体を為しているが、
根本の骨子は報瀬が自分の気持ちと向き合うための物語。





何故報瀬は南極へ向かうのか。





九話にて吟隊長に本心を問われた時は、

小淵沢報瀬「どう思ってるかなんて全然分からない。
ただ、ただお母さんは帰ってこない。
私の毎日は変らないのに……!
帰ってくるのを待っていた毎日とずっと一緒で、何も変らない。
毎日毎日思うんです、まるで帰ってくるのを待っているみたいだって。
変えるには行くしかないんです、
お母さんがいる宇宙(うちゅう)よりも遠い場所に。」
十二話では

小淵沢報瀬「それはまるで夢のようで。
あれ?醒めない。醒めないぞ、って思ってて。
それがいつまでも続いて、まだ……続いている。」
と、モノローグにて語る。

一見すると「母の死を受け入れられない」ように見えるが、
母が帰ってこない事は認識してるし、
精査すると受け入れようとする意思が垣間見える言葉である。
それ以前に母に会いに南極までの資金を貯める意思と行動力を持つ人間が、
死を受け入れられないほど弱いのだろうか?という疑問もある。
まぁ、人の心は複雑怪奇だからそう言い切れるわけではないが、今はその話はしてないよ。
閑話休題。
これらの語りからは母が居ない現実を受け入れようとすればするほど、
『日常風景に母が居なかった』という現実が重く心にのしかかってるように思える。
夢から醒めよう、醒めようとしてるのに。
母の死を受け入れて前に進もうとしてるのに。
母の死という要素が加わっても変らない日常風景が現実感を失わせる。
それはまるで遠い親戚の死を知らされても自分の生活が何も変らないのと同じで。
自分にとって母とは、母にとって自分とは、
なんなんだろうという漠然とした不安も湧いてくる。
それはもしかしたらずっとずっと前から抱いてたものかもしれない。
そういう心境なのではないだろうか。
そして、そういった不安を紛らわすように、
でも解決するために南極行きを決意したのではないのか。
目標を立てて走ってる間は何も考えなくていいから。

だから少しずつ南極へと近づくたび、目標が現実に近づいてくる。
現実が近づくほど自分と母の関係について向き合わなければならなくなる。
だから砕氷船に乗り込んでからは、少しずつ報瀬の表情が乏しくなる。

そして宇宙よりも遠い場所、南極に確かに辿り着いたが、
小淵沢報瀬「私ね、南極来たら泣くんじゃないかって、ずっと思ってた。
『これがお母さんが見た景色なんだ』
『この景色にお母さんは感動して、
こんな素敵な所だからお母さん、来たいって思ったんだ』
そんな風になるって。
でも……実際はそんな事全然無くって、
何見ても写真と一緒だってぐらいで」



母と同じ場所、同じ風景を見てるはずなのに、
それは何処か他人事で、
あまりにも遠くに母が居るという事実が心に重く降り積もってるのがうかがえる。



それでも友人や


母の友人に今までの自分を問い出され、






最後の場所へと旅立つ。


ちなみに、

この旗を見てキマリの表情が曇るのは、
報瀬が決して無愛想で無感情な人間ではないと知っているから、
これも多分後の行動の切っ掛けの一つ。

さておき。

そんな最後の場所への旅路の途中、
細々とだけど、母の事を吟隊長から報瀬は聞く。
これまでの中で”場所”にこだわっても母に近づけないと考えたからだろうか?

そしてブリザード吹雪く雪上車の中で、


母のまぼろしを見る。



幻影とは言え母の面影を見る事が出来たのは大きな一歩だったろうし、
この後、キマリに感謝された事で報瀬は一つの答えを得る。
それが直後の「dear お母さん」から始まるモノローグであり、
おそらく別れの手紙か何かの代わりなんだろうと思わせる。

そう、あの時点で報瀬はもう母の死を受け入れた。
たぶん母を忘れるという形で。





ところで唐突ですけど、
コンパスってどんな道具だと思います?


キマリは自称「コンパサー」で合宿の時にも、

ちょっと目的地からズレた報瀬を素早く正しい位置に戻しました。



そう、報瀬の答えはちょっとズレてたんです。





そうして天文建設地にまでやってきて。

やっとここまで来たと、貴子を思い感極まる吟隊長。


それに対し、ここまで来ても母を感じられない報瀬。



そんな報瀬を見てしまったら、

まずキマリの感情が溢れ出るんです。




   
あの表情豊かだった報瀬の事を知ってるから。




そして”敵”と戦っていた学校に居た時と同じ顔をしてるから。





 

もちろんキマリ達はモノローグの事なんて知らないですし、
ただただ「ここまで来てお母さんに会えないなんて」
「ちゃんとお母さんに会わせなきゃダメだ」
という思い込みで動いてるんでしょう。


でも、それでいいんです。
藤堂吟「けど思い込みだけが現実の理不尽を突破し、
不可能を可能にし、自分を前に進める」

現実の理不尽を突破し、不可能が可能になる時。












ロック解除のため試しに母の誕生日(?)を入力するが、
解除できず。
しばし思考。

そして鏡に写る写真が目に入る。

そこで”客観的に”親子であるという認識をし、
自らの誕生日を入力しようとするが、

一瞬、躊躇する。
客観的に見れば娘の誕生日をパスコードにするのは当然考えつくが、
主観的に見た時に母からどう思われてるのか分からない自分の誕生日で
果たして本当に通るのか?という不安。

そして通る自分の誕生日と「ようこそ」というシステムメッセージ。
母が何を思い、娘の誕生日をパスにしたのかは分からない、
けれど娘を忘れた事はないというある程度客観的な証左ではある。

そして、




母のPCに届く娘のメール。
劇中では送信してるのかしてないのかイマイチ不明瞭だったメール。
それは報瀬の『行き場のない想い』そのままで。
淀んでいた水が一気にあふれ出すように、
母のPCの元へと次々届く。

ただただひたすら流れていく文字列。



それをただ客観的に見つめるだけの報瀬。

でも、気付いちゃうんですよ。
主観では分からないけど、客観的に見ると。



大量にあふれ流れ出す「dear お母さん」という感情に。
それは10や20、100や200じゃない、
三年間の毎日、毎日の「dear お母さん」に気付いちゃうんです。



機械的に流れるメールに「お前はこんなにも母親が大好きなんだぞ」って。
気付かされちゃうんです。

そして、その想いは確かに母の元に届いていたと言う事に。





あ、もうダメ。俺は外で泣く。









































そうして私は、報瀬の『宇宙よりも遠い場所』が【お母さん】だという事を知ったんですね。






































で、終わりじゃ無いんです。
いや、私もこれで終わりだと思ってたんだ。
更に先に気付いたのは、
「なーんかこの作品、やたら通信する場面多くね?」
って所で、


それは他愛の無い家族の連絡だったり、


友達との会話の延長だったり、


ちょっとした旅の報告だったり、


ひらがな一文字の距離、


感情の無いシステムメッセージ、


単なる文字列、


寄り添う通信端末、


そして時には声で、


映像で、


なにかしら交信してる。





それはきっと、技術の発展した現代では、
宇宙よりも遠い場所であっても人は通信できる。
という事。


と、同時にこの作品は大事な事は面と向かって伝えることを徹底してる。

















それでですね、十二話を改めて観ると。



これ、通信してますね。
母親に、大事な事伝えなきゃいけないから。
ちゃんと面と向かって伝えなきゃいけないから。
だから、あんなに必死だったんですね。

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