まず始めに、
『谷の底で咲く花は』で毒毒言ってるから皆それを毒だって思ってるし、
そういう前提で言ってるけど、
私はそれを自ら生まれ持ってしまった体質・あるいは身を守る術である毒ではなく、
ほたる自身が自ら課してしまった呪いと捕らえています。
てゆうか毒自体、本来は使い方次第で薬にもなるモンなのよ。
そもそもほたるの不幸とは良くある「間の悪い出来事」であり、
偶然それが重なった結果、自らを「そうである」と定義づけしてしまったこと、
それ自体が不幸の始まりなのです。
さて話を戻します。
まず、なぜ『谷の底で咲く花は』を呪いの歌と感じたかというと、
それが現在《いま》を歌ってるようにはあまり思えなかったと言うこと。
そして、ほたるの不幸、それは自らに掛けた呪いであると言うことを踏まえると
『谷の底で咲く花は』という歌詞全体は
「不幸体質であってもこれからアイドルになろうと、
であろうとする覚悟を決める歌」ではなく、
「デレマス事務所に来る前に波瀾万丈遭った時代を──自らを蔑み呪った歌」
というある意味余計酷い状態のネガネガ曲になります。
そう、この曲”自体”に救いなんて無いんですよ。
まず、歌詞始めから眠りにつくまで。
これは「不幸体質だ」という自らの呪いのせいで何をも諦めてしまい、
日々眠りについていた時の心情を歌ったと考えられます。
ここ、デレステでの楽曲およびストーリーコミュで使われた部分なんですが、
思えばミスリードの塊みたいなもので、
デレステコミュだと「ここから『アイドル・白菊ほたる』は生まれ変わる」
ように見えるんですよね。
事実それで間違いないという。思考の落とし穴。始点の誤認。
これの延長で考えると、この歌の本質が呪いであるとは思い至らないでしょう。
そして厄介なことに「デレマス事務所に来てから歌う楽曲」でも確かに間違いでは無い。
いや、むしろ私の考えこそ天邪鬼な発想と言えるでしょう。
でも今のデレマス君、マジで性格悪いからなぁ……。
さておき。
そして次に来るのが嵐です。
”渡り鳥”というほたるの側に寄り添わないものが
「嵐が来る」と言って轟音と稲光を纏ったものを無責任に呼び寄せます。
これ「ライブの歓声と照明」の暗喩で、
何かの切っ掛けでアイドルのライブを見てしまったんですよね。きっと。
(モバのぷちコミュだとテレビだと語っている)
あるいは事務所に始めて入った時に舞台袖とかで目の当たりにしたとか。
ともかく、そこでほたるは美しい世界を見せられ正真正銘の毒にあてられたんですよ。
アイドルという名の毒。
諦められなくなってしまう不幸。
そうして”嵐”が去り、アイドルへの想いだけを募らせて
毒を抱えたまま待つしか出来ない自分を呪う歌なんじゃないかって思うんです。
普通なら諦めて終わるだけだったのに、
「自分もアイドルになれるかも知れない」という可能性に賭けてしまう。
それも元々ほたるは芯の強い子だったから。
無自覚な強さで進んでしまう不幸。
半端な希望は絶望より性質が悪いってね。
そう思い至ると最後の「わからないよ でも ここで咲く」は
夢を抱えて待つという前向きな意思などではなく、
どこにもいけない絶望を抱えて、それでも希望を持ち静かに終わりを待つ、
どちらかといえば後ろ向きな言葉になってしまう。
これだけ聞くとまるで救いの無い歌だし、
「おまえ本当に担当か?」と疑問を呈されても仕方ない。
しかし実際に『谷の底で咲く花は』というのは
見せかけの希望を歌っているに過ぎないと考えられてしまうのである。
本当に、本当に救いようのない歌である。
だが俺達は──
いや俺は知っている。
この歌が歌い終わった後、
暗転した後、
彼女の元へやって来るやつを。
俺は──そして白菊ほたるは知っている。
この『谷の底で咲く花は』は過去を歌った曲である。
だからこそ現在《いま》歌えるのである。
過去から蝕んでくる毒を呪いを不幸を『歌』としてパッケージングして
白菊ほたると切り離せるようになったのだから。
『谷の底で咲く花は』に救いは無い。
救われなかった過去を歌った楽曲だからだ。
しかし、今は違うのだ。
大事なことは谷の底《かこ》にはなく、外の世界《いま》にあるのだ。
そして現在《いま》が過去に、未来が現在《いま》になり『12時の魔法』が解けた時、
多分、これがガラスの靴の欠片の一つとなる。
それは過去を呪う歌としてではなく、
連なる時代の大切な一篇として祝福するための歌として。